
試合に復帰して塁間送球ができるようになった!
学生時代から野球一筋の人生を歩んできた。高校は県内でも名の通った強豪校で、在学中には全国大会への出場も果たしている。ポジションはエースピッチャーで、直球は140km台を記録し、当時はプロのスカウトから声が掛かるほどの実力を持っていた。
しかし、同年代には後にプロ野球界でも1軍で活躍する投手が何人もおり、全国大会でそのレベルの高さを肌で感じたことで「自分はプロでは大成しない」と現実を受け止め、大学卒業後はサラリーマンとしての道へ進んだ。
しかし、野球への情熱は冷めることなく、草野球を続けることで日々の生活に張りを持ち続けてきたが、年齢を重ねるにつれて右肩に違和感を覚えるようになった。
最初は「少し疲れが溜まっているだけだろう」と軽く考えていたが、右肩にハッキリと痛みを感じるようになった。徐々に後ろに手が回らなくなり、投球時も腕を振る位置が下がっているのが自分でもわかり、思うように腕が振れなくなった。
かつてはマウンドで相手をねじ伏せる快感を味わっていたが、思うような投球ができなくなり内野手へ転向した。次第にショートからファーストへの塁間送球にすら支障が出てきて、最終的には外野の端のほうへポジションを移すことになった。
守備中は「どうかボールが飛んでこないでくれ」と祈るような気持ちで守っていたが、当然のように打球は飛んできた。
打球が来ると肩からはもう投げられないのが分かっているため、下投げで返球できる距離まで自分の足で走っていってようやくボールを返すことしかできず、試合でチームに貢献できるのは代打だけになった。
あれだけ夢中になっていた野球が、いつの間にか辛く苦しいものになっていた。
ボールを投げることを一切やめて右肩の休息に努めていたが、右肩の可動域はますます悪化していった。シートベルトや電車のつり革を掴む動作、衣服の着脱など日常の何気ない動作すらスムーズにこなせない場面が増えていった。
追い打ちをかけるように、ある日椅子から立ち上がろうとした瞬間に、激しいぎっくり腰を発症してしまった。1週間はまっすぐに立てず、上半身が左側に傾いたまま日常生活もままならなくなり、週末の野球は代打で出ることもできずに応援だけになっていた。
もともと腰痛は15年ほど前からあり、これまでも何度かぎっくり腰を繰り返してきたが、今回は今までにない重さがあり、「このままだと野球どころか日常生活もまともに送れなくなるのではないか」という危機感を抱くようになった。
腰の不安定さに加え、左脚の外側にビリビリとした痺れも現れるようになった。電車で立っているときや歩行中に脚が棒のようになって動かなくなることもあり、身体への不安が一気に広がっていった。
整形外科では、腰椎4番・5番の椎間板が狭くなっていると伝えられたが、「加齢の影響ですね」と言われ、特に治療的な提案はなかった。湿布薬と痛み止めを処方され、「これで様子を見ましょう」とだけ告げられ、「このままでいいのだろうか」と不安が募っていった。
若い頃は営業で動き回っていたが、現在の仕事は完全にデスクワークで一日中座りっぱなしの生活が続いていた。その影響なのか、腰痛も回復する兆しがまったく見えなかった。
右肩だけでなく腰痛までも悪化していくことに、「なんとかしないと日常生活すらできなくなる」と思い、あちこちの治療院に通うようになった。
ありとあらゆる施術を試したが、どれも一時的には楽になるが、自分の中ですぐに戻ってしまう感覚があり、右肩は少し動かすだけでも痛みが出るようになった。そんな状態が2年間も続いていたことに、「不安や絶望」よりも、なぜか「苛立ち、怒り、やる気」に満ちてきた。
「このまま年齢のせいにして終わりたくない。なんとか野球に復帰したい。」
そんな強い気持ちを抱えていたとき、インターネットで前田カイロプラクティック藤沢院のホームページを見る機会があった。これまでカイロプラクティックは受けたことがなかったが、「神経の働き」とか「根本原因にアプローチ」という言葉が妙に引っかかった。
これまで行った治療院では、レントゲンや温度検査をするところはなかったため、「ここでなら根本的に変われるかもしれない」と思い、カイロプラクティックケアを受けてみようと決意して、当院に来院された。
頸部全体の過緊張
隆椎付近の熱感(炎症)
左仙腸関節の可動域制限
初診時の状態では、左の仙腸関節には明らかな可動域制限があった。体表温度検査では、上部胸椎と骨盤部に明らかに左右の温度の誤差が確認された。
隆椎周辺と左上後腸骨棘上端内縁に強い浮腫が確認され、腰部起立筋と頚部から肩にかけては過緊張の状態であった。また、隆椎周辺は強い熱感を帯びており、患部が炎症している状態であった。
レントゲン評価では、椎間板をD1~D6という6段階で評価していく。腰の椎間板の段階は慢性的なD6レベルで重度の骨盤の傾きが確認された。首の椎間板の段階は慢性的なD5レベルが確認され、首の前弯カーブ(前カーブ)は消失してストレートネックとなっていた。
初期集中期の段階では週3回のケアを提示したが、仕事の関係で週1回のケアも難しく、できる限り間隔を詰めてケアを開始した。
11週目(6回目のアジャストメント)には、日常生活もままならないような腰痛は軽減し、体の傾きはなくなった。脚の痺れも軽減してきて、太もも裏や臀部に張りを感じるようになった。
19週目(10回目のアジャストメント)には、腰痛や脚の痺れはすっかり解消した。また、電車で立っていると脚が棒のようになる感覚もなくなった。右肩の痛みも軽減し、衣服の着脱など日常生活での動作はできるようになった。
45週目(17回目のアジャストメント)には、右肩の痛みは解消し、日常生活には一切支障がなくなった。本人もハッキリと右肩の可動域が広がってきていると感じるようになり、ごく軽いキャッチボールならできるようになった。
61週目(21回目のアジャストメント)には、夏の大会で試合に復帰して、塁間送球ができるまで右肩の可動域が回復した。
現在は、このまま継続していればピッチャー復帰もできるかもしれないという思いから、定期的なカイロプラクティックケアを続けている。
今回の右肩の痛みと可動域制限は、上部胸椎における神経負荷が主な原因であったと考えられる。肩や上肢を支配する神経は、下部頸椎および上部胸椎における領域から分岐している。
ここに何らかの機能的障害が生じれば、可動域の制限や運動時痛といった現象が現れるのは必然である。体は、神経へのさらなる損傷を防ぐために可動域そのものを制限し、「これ以上動かすな」という防御反応を示す。
つまり、今回の右肩の可動域制限も、自ら損傷した神経を守ろうとした結果と捉えることができる。また、今回の右肩の問題は、骨盤部の機能異常も見逃せない。
人間の背骨は骨盤の上に乗っており、土台である骨盤が不安定になれば、背骨全体に影響を及ぼしてしまう。その結果、上部胸椎を含む各レベルの神経伝達にも異常が生じ、右肩の症状へと波及していた可能性もある。
腰痛および左脚の痺れも、同じく骨盤部のバランス異常が関与していたと推察される。骨盤には仙腸関節というものが左右に一つずつあり、その一方の可動性が低下すれば、反対側の仙腸関節は過剰に動いてしまう。
これが継続すれば、日常の歩行動作そのものが腰の椎間板に微細なストレスを与え、椎間板の厚みが減少していく。重要なのは椎間板の厚みが減ることが、すなわち病的であるとは限らないという点である。
椎間板の変性は、神経に過度の負荷がかかる状況を脳が感知し、それ以上の損傷を避けるために自らクッション性を減らすという「防御反応」として表れる場合がある。
背骨には「上体の支持」「上体を動かす」「脊髄の保護」という三つの役割があるが、その中でも脊髄の保護は最優先される。
背骨が不安定になって神経の流れが阻害されることは、脳にとって「命の危機」と同義であり、その危機に対し、体の司令塔である脳は骨と骨を癒合させてでも神経を守ろうとする。
脚の痺れについても、神経の反応過程として理解できる。人間の痛みの感覚は「正常→痛み →痺れ→麻痺」と進行し、回復時には「麻痺→痺れ→痛み→正常」という順で戻っていく。
脚が棒のようになる感覚は麻痺に近く、ケア中期には痺れが太もも裏や臀部のツッパリ感へと変化していったことから、まさにこの回復過程をなぞっていたと考えられる。
痛みや痺れは、体が「今ここに負担が掛かっていますよ」と脳へ伝える、大切なサインである。
今回の症例では、仕事の多忙から理想的なケア計画を実行することは難しかったが、「もう一度、野球に復帰したい」という本人の強い意志は、回復に向けて大きな要因となった。
ここで重要なのは、右肩の可動域制限が起きていた原因が「神経の防御反応」であったという点である。どれだけストレッチを重ねても、神経の負荷が取り除かれない限り、状態は改善しない。
アジャストメントによってサブラクセーションが取り除かれて神経の流れが整ったことで、自然治癒力が働き始め、肩の可動域や腰の不安、脚の痺れといった複合的な症状も改善へと向かったと考えられる。
本症例は、肩の問題にとどまらず、神経系全体の調和がどれほど身体にとって重要であるかを再確認させてくれる症例であった。
執筆者前田カイロプラクティック藤沢院前田 一真
1982年、神奈川県生まれ。シオカワスクール在学中から塩川カイロプラクティックにて内弟子として学ぶ。塩川満章D.C.と塩川雅士D.C.に師事し、副院長まで務める。2023年に前田カイロプラクティック藤沢院を開院。一人でも多くの人にカイロプラクティックの持つ無限の価値を知っていただくため、カイロプラクターとして尽力している。またシオカワスクールでは現役講師を務めており、後任の育成にも力を入れている。