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イネイトインテリジェンス

私は、カイロプラクティックの無料哲学セミナーを全国で行っている。 第1回は、鹿児島の今吉先生がスポンサーとなり、約250名の参加者があった。第2回は、熊本の天草で開業している山本先生がスポンサーとなり約300名、第3回は、新潟の吉村先生がスポンサーとなり約75名、第4回は、熊本の前川先生がスポンサーとなり約400名の人が集まった。 いずれの講演で...

アメリカそしてブラジルへ

ドクター・クレイ・トムソンによる毎年の日本での講演でBJパーマーの哲学を聞くことができた。彼は、カイロプラクティック界の重鎮であり、トムソンテーブルの開発者である。私のアメリカでの親代わりであった。 私はよくアメリカでの彼のセミナーにもついて行った。ある冬のセミナーでは、シカゴに大雪が降り、私と彼は飛行機会社が用意したホテルに泊まり、翌日の便でアイオワ...

再びアメリカへ

私は、ベネズエラを後にして再度母校のパーマー大学に寄る事にした。ちょうど卒後教育でドクター・クレイ・トムソンによる少人数のセミナーがあることを聞き、受ける事にした。今までガンステッド・テクニック以外のテクニックのセミナーは受けた事が無く、どのようなテクニックか、とても興味があった。 それはニュートンの慣性の法則を利用してテーブルがドロップする事によって...

ベネズエラにて

今から待ちに待った日本へ帰れると思うと心がうきうきした。ロスアンジェルスから2週間で日本に着く予定だったが、途中で台風にあった。台風が来るとまったく食事は取れないばかりか船酔いでほとんどの人が気持ち悪くなってしまい、寝込んでしまう。それでも船の中では新しい友人もでき、とても快適である。横浜に着くと私の所持金はほとんど無くなっていた。 日本を出発して4年...

アメリカ留学記 その7

大学生活も4年目になると、アメリカの生活にもだいぶ慣れてきた。学生クリニックが終わると、先輩達から外来患者を紹介してもらい、受け継がなくてはならない。今までは学生同士が患者になり練習感覚でできたが、今度は治療費を払ってもらうわけだから、責任が生じる。 私は先輩からジョンディアーに勤めている老夫婦を患者として紹介してもらったが、後に、この老夫婦にはとても...

アメリカ留学記 その6

パーマー大学の学長であった3代目のドクター・デイビッド・パーマーはよく私を彼の家に招待して、夕食をご馳走してくださった。ドクター・ミラー教授は私のアパートに来ては、ドクター・パーマーの夕食の招待状を持ってきてくれた。 学長の家に行くと、黒人の使用人が夕食の準備をしてくれた。その間、私と学長、さらに学長夫人のドクター・アグネス・パーマーを交え、色々な会話...

アメリカ留学記 その5

パーマー大学での寮生活ではいろいろなことがあった。毎日の夕食は、ダウンタウンの図書館の近くのキャフェテリア(食堂)でよく食べた。私はメニューがあまり分からなかったので、左から順番に注文し、自分の一番好きなメニューを探した。すると、フライドチキンがとても美味しかったので、毎日注文した。 ある時、ウェイトレスが私のテーブルに自分のハイスクールの写真を置き、...

アメリカ留学記 その4

パーマーカイロプラクティック大学はアイオワ州のデブンポート市にある。シカゴの西に位置し、シカゴから国道80号線で約3時間もすると着く。冬は、時に零下20度くらいにもなり、鼻水は氷になる。雪も30~40cm積もる。とても寒いところであるが、車を持たない私は歩いてミシシッピ川のほとりにあるYMCAに柔道を教えに行っていた。 川の向こうの隣町であるロックアイ...

アメリカ留学記 その3

セントラルハイスクールのシンディー・カーペンターの家での彼女の誕生会に招かれた時、そこにいたシーラ・マホニという女性が、来週は彼女の誕生日だということで、その日にデートをすることになった。 これが私の初めてのデートである。 聞くところによると、彼女はセントラルハイスクールでミスハイスクールに選ばれたらしい。私はまだ車を持っていなかったので、YMC...

アメリカ留学記 その2

大学を卒業するためには、別の問題もあった。それは、学校での成績である。 1学期に5教科をとっても1教科落としたら、3ヶ月卒業が遅れてしまう。そのように厳しい環境のため、3ヶ月でクラスメイトがどんどん変わっていく。柔道のクラスを終えるとすぐに帰って勉強しようと思ったが、柔道の生徒がクラスの終わりに、よく私のところに遊びに来た。そのため、勉強できるのは夜の...

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