世界のカイロプラクター その4
1月11日から17日まで、毎年ラスベガスで開催されるパーカーセミナーに出席した。ラスベガスは一時、多くの人たちが職を求めてやってきてとても賑わい、不動産を購入したくても抽選であって、値上がり率も半端ではなかった。
今ではサブプライムローンのために、ほとんどの不動産が半値以下に下がり、ローンが払えなくなり手放す人であふれてしまっていた。街のタクシードライバーはアフリカの国々からの政治亡命者であふれ、失業者がますます増えていた。実際には、失業者が政府の発表の10%ではなく、20%ぐらいではないかといううわさを街の人たちはしていた。
セミナーでは久しぶりに、カイロプラクティックの哲学を話したら止まらなくなるほど情熱であふれているドクター・シガフーの講演を聞いた。もう80歳を超える年齢になっているため時々何を言ったか忘れてしまう時もあった。しかし、それを差し引いても、その講演内容はすばらしく、まさに名演説であった。
私がドクター・シガフーを日本に招待していた頃は、彼はまだ全盛期でジムに通っては体を鍛えていた。私も何回か付き合ったことがある。私はよくフロリダの彼の自宅に行き、食事をしたり、哲学の話をしたりした。赤いオープンカーに乗り、フロリダの海岸をドライブしたこともある。
彼の一番下の息子は、日本にしばらく滞在して私たちが面倒を見たこともあるが、日本を離れ、世界を旅した後にアトランタにあるライフカイロプラクティック大学に入学してカイロプラクターになった。
ドクター・シガフーの子供はすべてカイロプラクターになり、全米で活躍している。
特に患者教育に力を入れており、テレビを使ったり、自分たちの治療室の中で定期的にカイロプラクティック患者教育を行ったりしている。
▲20年前のドクター・シガフー(左)と塩川満章D.C.
私は以前にドクター・クレイ・トムソンを通じて、全米で超一流のカイロプラクターに出会ったと述べたが、その中の一人にドクター・エアハートがいる。ドクター・エアハートはウィスカンソン州で開業していた。
彼はレントゲンに興味を抱き、親戚の医師を介して、カイロプラクターのためにレントゲン写真の見方についてのセミナーを開いた。約300名のカイロプラクターがそのセミナーに出席した。私はパーカーセミナーで何度となく、彼のセミナーに出席し、夕食を共にしたことが今では懐かしく思われる。
一度フロリダの学会後、アトランタの彼の豪邸に招待されて行ったことがある。それ以来、私がアトランタに行くと、彼は運転手の格好をして自慢のロールスロイスで飛行場まで迎えにきてくれた。そして、彼の家に泊まるのが私のアメリカでの予定の行動になってしまった。
また、現在の奥さんとは再婚同士であったが、とても仲が良かった。アンティークのエクスカリバーという非常に素晴らしい車を2台所有し、いつも2人でドライブに出かけた。とにかくドクター・エアハートは、私をとても大切な友人として扱ってくれた。
ドクター・クレイ・トムソンは、多くの有名なカイロプラクターからとても尊敬されていた。その中には、ドクター・エアハートやライフ大学を設立したドクター・シッド・ウィリアムス、ドクター・クリアランス・ガンステッドの弟であるドクター・マートン・ガンステッドなどがいた。
私はそれぞれの先生たちにとても大事にされた。そのために何度となく、彼らを日本でのセミナーに招待した。
▲ドクター・エアハート(右)とともに
1975年から1980年代にはドクター・クレイ・トムソンから多くの全米で有名な先生方を紹介してもらった。その中の一人に、あの有名なドクター・クリアランス・ガンステッドの唯一の弟で、カイロプラクターであるドクター・マートン・ガンステッドがいた。
ドクター・マートンは高齢にもかかわらず、とても日本を気に入ってくれた。日本にビザなしにこられたのはドクター・マートンただ一人である。私は係官に呼ばれ、私が保証するということで問題を解決することができた。
セミナーの合間によく銀座通りを散歩した。「ミツ、ビールを飲もう」といってライオンビルの中に入って、ビールをおいしそうに飲んだこともあった。
ドクター・マートンには息子がいたが、ドクター・クリアランス・ガンステッドには息子がいなかった。ドクター・マートンには1人の子供がおり、彼の名前はカーチス・ガンステッドといった。カーチスには一男一女の子供がいるが、その2人ともカイロプラクターになった。
私は後に、ウィスカンソン州のベロイトにあるガンステッドクリニックを訪れるたびに、2人の孫であるカイロプラクターにお世話になった。
一度カーチスから、ガンステッド家の歴史について聞かされたことがあった。ガンステッド家は親類など多くの人がノルウェーからの移民で、彼らはサウスダコタにやって来た。彼らの名字の多くがハーバーソン(港の息子)であった。そのために、郵便物が誤配されるなど面倒なことが起こっていた。
そこで、ドクター・ガンステッドの祖父が名字を変えようと決断し、当時ノルウェーの有名な牧場であったグンステッド牧場を英語に直してガンステッドという名前が誕生した。
ドクター・クリアランス・ガンステッドとドクター・マートン・ガンステッドは、遺伝性のリウマチ性関節炎を患っていた。いろいろな治療を試みたが、良い結果が出なかった。ちょうどその時にカイロプラクティックに出会い、良い結果が出たために、兄弟ともにカイロプラクターになることを決断した。
そして、パーマースクール・オブ・カイロプラクティックに入学した。兄のドクター・クリアランス・ガンステッドは独自の観察力から、あの有名なガンステッドテクニックを編み出した。
兄弟で約5年間一緒に開業していたが、弟のドクター・マートンはドクター・クレイ・トムソンに出会い、独自のトムソンテーブルを使ったテクニックを編み出した。決してアメリカではセミナーなどで教えなかったが、日本ではドクター・マートン方式のカイロプラクティックテクニックを講義し、瞬く間に多くの日本のカイロプラクターの心を捉えた。
一方、兄であるドクター・クリアランス・ガンステッドはマウントハーブという人口わずか3,000人の町に世界最大のカイロプラクティッククリニックを設立した。待合室は109名の患者が座ることができ、私はそこに座って、遠方からこられた患者と話をすることがとても好きだった。
ある患者が、地元のカイロプラクターに診てもらっていた時のレントゲン写真と、ドクター・ガンステッドに治療を受けてからのレントゲンを見せてくれた。患者が言うには、「私は5時間かけてここに来て、わずか5分の治療を受けて、また5時間かけて家に帰るがとても満足している。これが治療前のレントゲン写真で、これが治療後のレントゲン写真だ」と言って、得意げに私に話した。
私がどこから来た患者であるかを尋ねられたので、「いいえ、私はここの先生の技術を学びにきた学生です」と答えたら、その人はとても喜び、「がんばってください」と励ましてくれた。