ベネズエラにて
今から待ちに待った日本へ帰れると思うと心がうきうきした。ロスアンジェルスから2週間で日本に着く予定だったが、途中で台風にあった。台風が来るとまったく食事は取れないばかりか船酔いでほとんどの人が気持ち悪くなってしまい、寝込んでしまう。それでも船の中では新しい友人もでき、とても快適である。横浜に着くと私の所持金はほとんど無くなっていた。
日本を出発して4年と5ヶ月のアメリカの生活の中で一回も日本に帰らず、一人の力で大学を卒業できたことは、今後どのような苦難に遭っても、それを打ち砕いていけるという自信となった。
一文無しで出発し、一文無しで帰ってきた。
残ったのは知識と経験という計り知れない財産であった。
B.J.パーマーがいつも述べていた「知識とは偉大なる力である」を実践した気がする。私は、アメリカ人になると決断し、アメリカ人が食べるものを食べ、夢を見るのも英語と徹底したせいか、日本に帰ってきて初めて銀行に行った時に、その銀行にいる日本人を見て、この銀行には外国人が多いなあと、錯覚した事があった。
自分が日本人である事を忘れてしまったのにはびっくりした。日本での生活は、夜に針灸学校に通い、朝から夕方まで、兄の整形外科でカイロプラクターとして働き、日曜日はガンステッドテクニックの勉強会を開いた。
しかし兄との仕事はうまくいかなかった。たまたまベネズエラ出身のパーマー時代の同級生のドクター・ルイス・バレラが初めて南米でカイロプラクティックのクリニックを作るという事でパンナムの飛行機のチケットが送られてきた。私は兄に「親の財産はいらないから自由にしてください」という書置きをして南米のベネズエラに向かった。
▲ベネズエラのクリニックにて
ベネズエラに着くと、ビザがないことに気づいた。ルイスが飛行機のタラップまで来たので、ビザを取り忘れた事を言うと、移民局の長官が来てくれて無事税関をパスした。翌日、移民局に行くと永住権を渡された時にはびっくりした。
ベネズエラのカラカスでの生活は午前中にスペイン語の学校に行き午後から治療をした。ルイスはすぐに弁護士のところに連れて行き月5,000ドルで雇う契約書を作ったが、あまりにも立派な治療室を作ったために一度もその契約は履行されなかったが、いい経験になった。
中でも、テソレロ将軍やベネズエラ航空の専属カイロプラクターになった事は名誉であり、私は世界一周のチケットや大統領の仕立屋でイタリアンスタイルの背広がプレゼントされた。マルガリータ島に行く時には軍のジープで2人の護衛つきでジャングルを行かなければならなかった。当時のベネズエラはまだテロ行為があったため心配しながらの旅になったが、今思えばそれも結構楽しかった。
ある時にテレビに東洋から来た治療家と紹介され、ガンステッド・テクニックのデモンストレーションをしたら次の日には患者でいっぱいになった。私たちのクリニックはカラカスの高級住宅地の中にあり、目の前には精神科の先生が開業していた。
その精神科の先生の治療法は、旦那とケンカしていろいろな症状を言っている患者には旦那の大きな写真を持ってこさせ、それをわら人形に張りつけ、バットで思いっきり叩かせて、ストレスを開放させることによって治療費を取っていた。いろいろな治療法があるものだと感心させられた。
私たちのクリニックはカラサンという内科医とカイロプラクター3人で南米初めてのカイロプラクティック・クリニックを作った。ここカラカスの金持ちは桁外れである。ある金持ちの娘の股関節の異常を治してくれたら、財産の一部をやると言われた時にはびっくりしたが、私には手におえないほどひどかったので、私には治せないことを言ったが、よく患者を紹介してくれた。
私生活ではヒルトンホテルの内の床屋がとても気に入った。12時近くに行くと、シエスタタイムで昼寝の時間だといって、途中でやめて、昼寝が終わったらまた再開してくれたこともあったが、この国がとても気に入った。
私の出入国の際には、いつも飛行場を管理している軍人が付き添ってくれた。税関にはいつもボタンがあり、ボタンを押して緑が出たらそのままパスであるが、赤が出たら調べられるわけである。上の階から人が見ていたのでそこで色々指図していたのではないかと思われた。
1年ぐらいしたらクリニックも軌道に乗ったので、私は日本に帰ってカイロプラクティックを日本に広めたい事を話して、ベネズエラを後にした。
▲ベネズエラの新聞に掲載された塩川満章D.C.の記事
▲1993年にベネズエラで勲章を受ける塩川満章D.C.