アメリカ留学記 その4
パーマーカイロプラクティック大学はアイオワ州のデブンポート市にある。シカゴの西に位置し、シカゴから国道80号線で約3時間もすると着く。冬は、時に零下20度くらいにもなり、鼻水は氷になる。雪も30~40cm積もる。とても寒いところであるが、車を持たない私は歩いてミシシッピ川のほとりにあるYMCAに柔道を教えに行っていた。
川の向こうの隣町であるロックアイランドのYWCAに行く時には、長い橋を歩いて渡らなければならなかった。ここでは中学生や高校生の女の子に柔道を教えていた。
ある時、1人の生徒からドライブインシアターで映画を見に行こうという誘いがあったので、快く引き受けた。当時の高校生はほとんど車を持っていたので、彼女の車で行くことになった。しかし、ドライブインシアターに着くと、後ろのトランクから2、3人の女の子が出てきた。すぐにばれて私は罰金を払う羽目になった。
またある時、1人の高校生から彼女の高校で柔道の講演をしてくれという依頼があったので、教室で1クラスに対して行うものぐらいに考えて、それも快く引き受けた。
しかし、その高校へ行くと全校生徒ならびに先生が講堂に集まっていた。私はとてもビックリしたが、なんとかなるだろうという気持ちで壇上に立った。最初は東洋の哲学を話し、そしてデモンストレーションになった。
するとレスリング部の体格のいい若者が出てきた。すぐに、関節技をかけると彼は宙に浮いた。みなの喝采を浴びて無事終了した時には、安堵感と喜びでいっぱいになった。
しばらくすると、高校生の女の子たちから私の家でパーティーを開きたいから男性を集めてくれという依頼があった。私はパーマーの学生たちが住んでいるアパートを借りていたので、色々な部屋をノックして歩いた。金曜日の夜だったので、ほとんどの家でパーティーを開いていたために、1時間くらい探したが誰も探すことはできなかった。自分のアパートに帰ると高校生の女の子たちはみな帰ってしまっていた。
私は仕方なく別のパーティーに参加した。
そこで出会ったのが、現シャーマン大学の副学長であるドクター・マイラン・ブラウンとその友達のジーン・ジョホダの2人であった。
マイランはユダヤ系で、ジーンはハンガリー系米国人である。2人は高校時代の親友であったが、ジーンは途中で退学してしまった。ある年のクリスマスに、私は仕事を休んでニュージャージーに住むマイランの家族に会いに行った。
マイランの家族は私を自分の子供のようにかわいがってくれた。しかも、マイランの両親は私の卒業式にわざわざニュージャージーから車を運転して駆けつけてくれた。私が柔道を教えていたアイリッシュ系のリングと後にマイランと結婚することとなるドイツ系のシャーリーンと練習の帰り道が一緒だったため、よくこの2人が私の家に遊びに来た。
ある時の会話で、私が、日本の女性はおとなしくて決して男性を打たないといったら、シャーリーンは、私の頬を打ったら打ち返す、というので、面白半分に彼女の頬を軽く打ったら、その何倍もの力で私の頬は打たれた。
しかも、私のメガネまで飛んでしまった。
その時に私は、アメリカ人と結婚したくないなと思ってしまった。後に、シャーリーンとマイランが結婚する時に、ドイツ人とユダヤ人が結婚するということで、2人の家族を満足させる教会が見つからず、とうとうシャーリーンの実家の農家の庭で結婚することになった。
マイランは私より2年くらい後輩になるが、私の柔道のクラスにはよく来てくれた。彼の兄もカイロプラクターで、アトランティックシティで開業していた。彼の兄には、1回だけ会ったことがあるが、自分の息子の名前をパーマー大学の2代目学長B.J.(ビージェー)パーマーにちなんで、BJと名付けるほどであり、その尊敬度合いがうかがい知れる。
その影響もあって、マイランもパーマー大学を卒業すると、BJリサーチクリニックで主任として働いていたドクター・シャーマンを頼って、彼のクリニックで働きながら、BJの行ったボディドロップターグルリコイルテクニックを学んだ。
私はマイランからBJのことを学んだ。BJが最も研究したかった神経圧迫測定装置器の開発をするために、当時医療器の精密機械を担当していたロジャータイトンを私に紹介したのもマイランである。
シャーリーンは後にカイロプラクティックアシスタントコースを卒業し、マイランを支えた。とにかくユダヤ系のカイロプラクターは筋が通っている。
ドクター・リッジー・ゴールドもその1人である。彼はイスラエルからの移民であるが、カイロプラクティックの哲学を話させたら超一流である。彼の「ツライユンオブライフ(生命の3大要素)」はまさにカイロプラクティックそのものである。私は、彼がニューヨークの郊外で1日300名も患者を診ているということを聞いて、彼の治療院を一度訪れたことがある。
彼は私にこう言った。
「ミツ、私は物を忘れた時、絶対家に取りに帰らない。なぜなら後ろを振り返ったり、過去のことを色々考えたりすることはいやなのである。これから来る将来に向けて努力することが好きである」と。
哲学者や原理原則を持った人は決して妥協しない。
私はそのような生き方がとても好きである。シャーマン人脈のおかげで私はドクター・リッジー・ゴールドを一度日本に呼ぶことができた。
私が尊敬しているもう1人のカイロプラクティック哲学者はドクター・シガフーである。私は、フロリダの彼の家に招待されて行ったことがあるが、彼は赤いオープンカーに乗って、カイロプラクティックの哲学を教えながら、人生を楽しんでいる。
彼の子供は全員カイロプラクターである。
一番下の息子は私の会社で1年間働いたが、アメリカに帰るとすぐにカイロプラクティックの大学に入り、カイロプラクターになった。マイランは、ほとんどのカイロプラクティックの哲学者に影響力を持つようになり、私にも紹介してくれた。私は彼らのカイロプラクティック哲学に魅せられて、B.J.パーマーにたどり着くことができた。