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アメリカ留学記 その1

私はカイロプラクティックが大好きである。

私とカイロプラクティックとの出会いは今から約40年前の1968年、大阪で整形外科を開業していた兄からの申し出がきっかけであった。ある時、兄から、カイロプラクティックという治療医学がアメリカにあり、その治療医学が学べるパーマーカイロプラクティック大学に留学する気は無いかと聞かれた。私は1週間考えた末に、奨学金が出れば自分の力で大学にいけるのではないかと思った。

そこで、パーマー大学に奨学金を申請したところ、ほどなくして4年間の授業料免除の知らせが届いた。早速アメリカへ最も安い方法で行ける方法を探すと、横浜港からブラジル丸という移民船がある事が分かった。

私は一番安い船底の6人部屋を選んだ。その部屋には、若い冒険心に満ちた若者たちがいた。中には神戸大学を休学して、自転車でアメリカ大陸を横断しようとする若者や香港からブラジルへ移民する多くの中国人もいた。ハワイまで1週間、さらに1週間かけて、ロスアンジェルス港へたどりついた。

1968年といえば、アメリカはまだベトナム戦争で、多くの若者が戦場へ駆り出されていた。ブロードウェイではロバート・ケネディが遊説しており、私もたまたまその近くにいたため、その姿を見ることができた。

しかし、その夜のニュースで、ケネディがアンバサダーホテルにて暗殺されたことを知り、非常に驚いた。翌朝、公衆電話を使おうと思ったが、左側には黒人がいて、右側には白人がいた。私はどちらを使ったら良いか迷ったが、とにかく左側に入ろうとした。すると、そこにいた黒人たちに反対側だと言われ、右側に入ろうとしたら、今度は白人たちに反対側だと言われてしまった。

とにかく人種差別の強い時代でもあった。私はこの時、自分が黄色人種であることを自覚した。

アイオワ州のデブンポートにあるパーマーカイロプラクティック大学での授業が始まる7月まで、ロサンジェルスで英語の勉強をしようと思い、色々探したところ、ケンブリアアダルトスクールに行けば授業料25セントで教えてくれることが分かった。早速クラスに入ると、隣にケインコスギさんのお父さんであるショーコスギさんが座っていた。その隣には、後にケインさんの母親となる台湾人の女性が座っていた。私たちの英語はひどいものであり、最初は、そんなに通じる英語ではなかった。苦労して勉強したおかげで、何とか通じるようになった。その後ショーさんは苦学しながらロサンジェルスの大学に入った。

7月近くになり、私は、たまたま知り合ったロサンジェルスに来ていたパーマー大学の学生の車に乗せてもらい、パーマー大学に向かった。2日半かけて、ロサンジェルスから、ラスベガス、ネブラスカ、そしてデモインにたどりついた。

長旅だったため、後3時間ほどでデブンポートに着くと言われた時は、正直ホッとした。また、アメリカ大陸の大きさに驚きもした。

パーマー大学では1ヶ月60ドルの6人部屋の寮に入ったが、たまたまルームメイトがオーストラリア人だったため、なまりがひどく、彼の英語はまったく理解できなかった。このまま大学でついていけるだろうかという不安に襲われたが、とにかく、プリクォーター(パーマー大学に入るための教育)で3ヶ月勉強することにしたが、資金が不足していたので、大学の日曜日のキャフェテリア(食堂)で皿洗いの仕事をもらった。

私は自分の力でアメリカの大学を卒業したかったので、金策に奔走しなければならなかった。現在では、パーマー大学の授業料は4ヶ月で100万円ぐらいと聞いているが、1968年当時では3ヶ月で275ドルぐらいだったので、日本円に換算すると約9万円である。

さらに、毎月の本代、寮費、食事代などの生活費が約400~500ドルもかかることが分かった。日曜日の皿洗いの仕事が時給1.5ドルであったため、1日に稼げるのはせいぜい7ドル程度である。そこで私は、中学時代に柔道部で学んだことを活かそうと思い、YMCA(Young Men’s Christian Association)とYWCA(Young Women’s Christian Association)に自分を売り込みに行った。

私は責任者への面会を申し込み、柔道のクラスを作ってもらうことをお願いした。

しばらくすると返事が来た。夜の6時から9時まで3クラスを受け持ってほしいという返事があり、とてもうれしく思った。これである程度の収入が確保できる。そして、さらにうれしいことは、当時の平均時給の2倍も払ってくれるということである。計算してみると1日の収入は9ドルになり1ヶ月に216ドルになることが分かった。

しかし、そう調子のいい話がいつまでも続くわけではなく、中間試験や期末試験の間は柔道のクラスを休まなければ授業についていけなかった。そこで、足りない分を補うため、夏の学期を休み、通常の1ヶ月の休みと合わせて年4ヶ月働くこととした。

柔道を教える塩川満章D.C.

また、毎年YMCAが主催するサマーキャンプでも働くことにした。このサマーキャンプは1週間ごとに小学生・中学生がみんなで一緒に過ごし、色々な経験を経験するために作られた子供のためのプログラムである。子供たちはいくつかのキャビン(小屋)に振り分けられ、それぞれのキャビンに名前がつけられた。

私が受け持ったキャビンの名前は、有名なインディアンの名前をとって「ブラックホークキャビン」になった。それぞれ応援歌があり食事の前に力強く歌い、どのキャビンが一番元気であるか競い合うわけである。子供たちはみな必死に自分のキャビンを応援する。

私はこのキャンプで柔道を教えながら、ブラックホークキャビンのシニアカウンセラーとして子供たちの面倒を見た。また子供たちが寝る時間になると、ギターが弾ける人とともに各キャビンを回り、フォークソングを歌い、子供たちが安心して寝られるようにするのが日課だった。土曜日の夜はキャンプファイヤーをし、その週のお別れ会をした。

キャンプ場にて少女と

とにかく、このサマーキャンプでは食事がついている上に、家賃がかからないため、非常に経済的であった。そのため、夏になると毎年アパートを引き払い、荷物を友達のアパートに預け、できるだけ節約した。

そのため、私は何回も引越しをしなければならなかった。

その夏の私の収入は約2,000ドルぐらいになった。これで、誰にも頼らずにパーマー大学を卒業できるメドが立った。

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