アメリカ留学を振り返る その1
私がカイロプラクティックを知ったきっかけは、以前にも述べたように大阪で整形外科医として開業していた兄の塩川満蔵先生である。彼はカイロプラクティックがとても好きで、自分でも多くの患者をカイロプラクティックで診ていた。
当時、私はあまりカイロプラクティックのことは分からず、アメリカのアイオワ州にあるパーマー大学に留学したが、ほとんど自分の力で仕事を探し、卒業したといっても過言ではないほどいろいろな仕事をした。
夏休みは6月に始まり7月の半ばで終り、夏の学期は7月から9月までである。私はほとんどの夏の学期を休み、アルバイトに当てた。皿洗いに始まりバスボーイ、柔道の先生などで資金を稼ぎ、毎年夏休みになると今まで住み慣れたアパートを引き払い、食事部屋つきの仕事を探して節約した。
私の1週間の食費は30~40ドル程度で部屋代は1ヶ月70ドル程度であった。学校が始まっても夕方の6時から9時までほとんど毎日柔道の先生をした。そのために日本に帰ってきても苦労はほとんど苦にならず、1年に360日働いてきたような気がする。
パーマー大学を卒業して約1年間大阪の兄のところで働いたが、いろいろなことが起こり、やめてベネズエラに渡った。1年後に日本に帰ってきて今の妻に出会い1ヶ月で結婚した。結婚費用もないくらい貧乏していたために、アメリカのカイロプラクターとして活躍していたドクター・クレイ・トムソンに事情を話したところ、アメリカでは25ドルで結婚できるということで一路アメリカに向かった。
結婚式がアメリカのデブンポートで行われたため、ハネムーンの場所をジャマイカに選んだ。空から見るジャマイカの海は今まで見たことがないような色で、とても美しかったことを覚えている。
飛行機はキングストーンではなくモンテゴベイに着いた。ホテルは南国特有の雰囲気でとてもきれいなところである。ドライバーを雇ってバナナ畑を見物したが、そのジャマイカはアメリカの多角経営を行っている商社につぶされている。
世界銀行からいくら借金しても国民には行かず、高金利の返済とアメリカから来る安い農作物のために政府はアメリカの言いなりになり、保護貿易が完全に崩壊した。今では1ヶ月の給料がわずか3000円から5000円で生活している。自国で生産する農作物がアメリカの物より高くなり、世界銀行の融資の条件を飲まなくてはいけなかった。ジャマイカ政府の責任だけでは決して語れないほど国は貧乏になってしまった。
ボブマリーの音楽を聴くたびに楽しかったハネムーンを思い出すが、国民のことを考えると悲しくなる。
世界中には貧しい国がたくさんある。
カンボジアのアンコールワットに行った時も、地雷で足を失った子供に出会った。ホテルの前には人力車で稼いでいる多くの人たちを見たが、彼らは1日1000円を稼ぐために必死である。世界中を旅していると日本が平和であり、すばらしい国であることを痛感する。
アンコールワットの朝日は、とても印象に残るシーンであった。私のフランスの友人のダニエルはカンボジア政府と強いコネクションをつくり、たびたび訪れたそうである。ホテルの中は天国であるが、一歩外に出ると、あまりにも多くの貧しい人たちで悲しくなる。
夕方には山に象に乗って、夕日を見ることにした。ここでの夕日は、日本では決して見ることができないぐらいとても美しい。昔BJパーマーがここを訪れて、仏像や東洋の芸術品に興味を抱き、多くの美術品を集めて、パーマー大学の中に「小さな天国」という名前の庭園を造ったことは、理解できる気がした。
私がアメリカで結婚式を挙げた時に、この町の新聞社がこの庭園で私にインタビューをした。翌日の新聞には、でかでかと「遠方からこの町で結婚式を挙げた人」というタイトルで私が紹介されていた。
この庭園の中には、東洋の仏像や日本の二宮尊徳の像などがあり、日本にいるような錯覚さえ起こしてしまう。私はこの町に1968年の7月から1972年の10月まで、4年3ヶ月の間暮らしていた。
ミシシッピ川を渡った隣町は、イリノイ州のロックアイランドである。パーマー大学寮からブレイディ通りを下り、ミシシッピ川の橋を渡るとYWCAがある。私はそこで柔道を教えていた。
ほとんどの学生はロックアイランド高校の学生であった。ある時、高校での講演を頼まれた。少人数での講演かと思っていたら、全校生徒が講堂に集まり、私が着くのを待っていた。
1時間ほど柔道の精神や東洋哲学を説いた後に、デモンストレーションに移った。私の前に現れたのはレスリング部の体格のよい学生であった。運良く私の技が効いて彼は宙に浮いてしまった。
▲柔道を教える塩川満章D.C
私はデブンポート市のYMCAでも柔道を教えていた。そのため、この町の有名人であった。町を歩いていると、知らない人から私の名前を知らないためか、ヘイチャプスイと中華レストランのメニューの名前で呼ばれたこともある。
ロックアイランドにあるチャイニーズキッチンには、よく世話になった。ここのポークヌードルスープの味は、日本を思い出させるぐらい私の口に合った。多くのアジアからやって来た留学生は、ほとんどこのレストランの世話になった。卒業してからもう一度訪ねた時には、レストランは息子さんが跡を継いでいた。私が初めてアメリカでデートしたのも、このレストランだった。
相手は、シイラ・マホーニというセントラルハイスクールの学生で、ミスハイスクールに輝いたことがある女性だった。彼女とは、シンディ・カーペンターという同じセントラルハイスクールの学生の家での誕生パーティーで初めて出会った。その翌週がシイラの誕生日ということで、デートすることになった。
しかし、私はまだ車どころか免許すら無いために、YMCAの水泳の女性の先生に頼んで、香港からの留学生のイッポーワイと4人でのダブルデートとして、車を出してもらった。水泳の先生は、私が初めてのデートと言うことで色々教えてくれた。シイラの家のドアをノックすると、彼女が出迎えてくれた。彼女は私に向かって「ホールドユアパンツオン」と言って、また家の中に入っていった。
私はその言葉を直訳して、自分のズボンを彼女が出てくるまでの約10分間握っていた。彼女が戻ってくると、私の姿を見て、何をしているのと尋ねてきた。私は彼女の言っていることが理解できなかった。
後に、彼女が最初に言った言葉の意味は「もうちょっと待ってて」であると、説明されて分かった。そんなわけで、アメリカの俗語が分からない私は、その後も多くの間違った解釈をして笑われたことがあった。そのようなことも今は良い思い出である。
その後、シイラは高校を卒業すると、すぐに軍隊の学校に入ったそうである。
デブンポート市へはシカゴからプロペラ機で、約45分で行くことができる。ドイツ系の人が多く住み、隣町はベッテンドルフと呼ばれ、とても治安の良い町である。私はパーマー大学の3代目学長の家によく招待されたので、この町によく来た。
学長の家は、ベッテンドルフのミシシッピ川沿いにある立派な家だった。食事が終わると東洋的に作られたリビングで、アグネス・パーマー夫人から話を聞くのがとても楽しかった。
元アメリカ大統領のレーガン氏が、BJパーマーの経営していたこの町のラジオ局でアナウンサーをしていたことや、3代目学長がプレイボーイであったために、アグネス・パーマーはなかなか簡単にデートをしなかったことなど、多くの話を聞かせてもらった。
後に、私はパーマー家と親しい付き合いをすることになり、一度ネイプルの夏の別荘に招待されたこともあった。私が気を使ってホテルを予約したら、「私の家に泊まりなさい」と言って快く私たち家族を泊らせてくれた。この町でもパーマー家はとても有名で、ゴルフ場のクラブハウスの理事長もしていたので、このクラブハウスで食事に招待されたことがある。BJパーマーはサラソタをこよなく愛していたが、3代目のデイビッド・パーマーはこのネイプルをこよなく愛していた。
▲アグネス・パーマーと塩川満章D.C.
パーマー大学は全米でもラグビーが強く、ノートルダム大学と優勝をよく争っていた。当時のパーマー大学はプライベートジェット機を所有し、ラグビー部の選手を乗せて全米を飛び回った。
ほとんどのラグビー部員はアフリカやヨーロッパからの留学生が多く、しかも特別な奨学金が支給された。私はネイプルよりも、BJパーマーが最も好きだったサラソタがとても好きで何度となく行った。この町はサーカスの発祥の地で、BJパーマーもサーカス一団を持っていたほどサーカスを愛していた。
私がパーマーの学生時代に知り合い、とてもよくしてもらったブリッグさんもデブンポート銀行の副頭取の職を辞めてからサラソタでリタイア生活を送っている。私がチェックブックを無くした時などは、すぐに再発行してくれたり、自宅に招待してくれた。
奥様はピアノがとても上手で、食事の後には必ずピアノ演奏とすばらしい歌を披露してくださった。
娘が3人いて、それぞれとても美人であった。私を紹介してくれたのは、YMCAの夏のキャンプで働いていた末娘で名前をビッキーと言い、キャンプではとてもお世話になった。私のキャビンは、ここのインディアンの名前を取ってブラックホークと呼んでいた。
私の下には高校生のジュニアカウンセラーがいた。キャビンには、ベッドが12~13名分あった。土曜日にキャンプファイヤーや各キャビンの前でインストラクターたちがフォークソングを歌い送り出した。一番印象に残る曲はブラザーフォーの「花はどこに行った」である。
日曜日には新しい子供たちが入ってくる。毎週どんな子供が入ってくるかとても楽しかったが、時にはやんちゃ坊主が入ってくる時がある。私はキャビンの責任者と柔道の先生だったので、子供たちには威厳を保たなければならなかった。食事は大きなダイニングに各キャビンのダイニングテーブルがあり、食事の前には各キャビンの応援歌を歌い、自分のキャビンが一番だと大声を出して主張した。
山の中には大きな池や川があり、カヌーや射撃、フットボール、乗馬など色々なスポーツを教えた。私は大学生だからシニアインストラクターとなり、高校生のジュニアインストラクターが一人ずつ各キャビンにアシスタントとして手伝ってくれた。
私は1ドル360円の時代に、この夏に3000ドルもためることができた。夏休みも終わると、この時に出会った友人たちと別れてそれぞれの大学に皆帰っていった。