アメリカそしてブラジルへ
ドクター・クレイ・トムソンによる毎年の日本での講演でBJパーマーの哲学を聞くことができた。彼は、カイロプラクティック界の重鎮であり、トムソンテーブルの開発者である。私のアメリカでの親代わりであった。
私はよくアメリカでの彼のセミナーにもついて行った。ある冬のセミナーでは、シカゴに大雪が降り、私と彼は飛行機会社が用意したホテルに泊まり、翌日の便でアイオワに帰ることになったので、同じ部屋で泊まることになった。そこで2人のどちらがターグル・リコイルのスピードがあるか、競争することになった。
彼は私に向かって、一般のカイロプラクターよりは速いが、自分よりは遅いと言った。自分がナンバー1であり、私をナンバー2だとも言った。
昔、彼がBJと競争した時に、BJが彼に言った言葉を思い出して、とてもおかしかった。BJ哲学を話したら、彼は世界一の哲学者である。彼は数少ないPHC(フィロソファー・オブ・カイロプラクティック)の称号を持っているカイロプラクターの1人である。BJパーマーによって開発されたカイロプラクティックの哲学は、ドクター・トムソン、そして私に引き継がれた。私は、彼を通して、BJ哲学を学ぶことができた。
また、夕方からはポルトガル語の学校に通った。そこでもたくさんの友達ができた。私はこの陽気な南米の人たちがとても気に入った。
サンパウロから飛行機で1時間もすると、あのリオのカーニバルで有名なリオデジャネイロに行くことができる。このリオのコパカバーナビーチやイパネマの海岸は、とても美しく、私の好きなところの1つになった。
丘の上には、大きなキリストの像がそびえ立っている。私は一度この山に登って、リオデジャネイロの海岸を見たことがある。それは壮大で美しかった。サンパウロのクリニックは、パウリスタ通りから少し中に入ったところにある2階建ての立派な建物である。夜になると、トロピカルな木が照明で照らされて、とてもきれいに見えた。
ブラジルは108カ国の民族の集まりであり、ほとんどの人が混血であるので、患者の多くは、なかなか日本では見られない人達であった。数年後、このクリニックはインフレのために閉鎖することになった。しかし、非常に貴重な経験をすることができたと思っている。
私たちは週末になると、広川さんのアルジャの別荘で過ごした。その中で、野生のブラジルの肉を1人1キロも用意されて、食べたのが印象に残っている。脂の少ない歯ごたえのあるブラジルの肉は、今でもよく思い出す。日本食が食べたくなったら、リベルダージの日本人街の日本食堂によく行った。
私たちのクリニックは閉鎖したが、3人のシオカワスクールの卒業生によってカイロプラクティックは受け継がれ、今では大成功を収めている。
数年後に、シオカワスクールの講師である神庭先生や、私が会長を務めている日本カイロプラクティック・リサーチ協会の機関誌「スパイナルコラム」の出版を助けていただいている東友印刷の田中氏と共にブラジルを訪れた。ブラジルのカイロプラクティックを引き継いで大成功を収めた長屋先生が治療を休んで、アルゼンチンとブラジルの境にあるイグアスの滝やリオデジャネイロの旅に付き添ってくれた。
私たちはアルゼンチン川のホテルに泊まったが、運悪くそこにカジノがあったため、私はほとんどのキャッシュをそこで無くしてしまった。そこで、日本から持ってきたビデオカメラなどの所持品を売って、かろうじて旅を楽しむことができた。