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世界のカイロプラクター その3

ドクター・トムソンは日本に来るたびに色々な先生を連れてきた。その一人がネブラスカで開業してSOTを開発したドクター・メイジャー・ディジョネットである。

私は日本に初めてSOTを紹介した。このテクニックはまたたく間に日本に広まり、頭蓋骨調整法やブロック骨盤調整法などとして多くのカイロプラクターが利用した。私は約5年間、先生のクリニックに通い、治療を見学したりセミナーに出席したりした。

私が初めて頭蓋骨調整法に興味を持ったのは、パーマー大学の4年生の時でオステオパシーのドクターでパーマー大学の前で開業していたドクター・クーパーのクリニックに毎週土曜日に見学に行った時である。先生は、私が勉強するためにドクター・サザーランドの頭蓋骨調整法という本をくれた。

ある時初めて、アメリカの肉を先生の庭でご馳走になった。その時こんなおいしい肉は無いと感激したことを思い出す。そのために日本に帰ってきても、松阪牛などのような柔らかい肉はなじめなかった。

ドクター・ディジョネットが最初来日される時に、私が当時京都まで往診していた占い師を訪れたところ、その人がドクター・ディジョネットのパスポートが見えないと言われた。すぐにドクター・ディジョネットに電話をしたらまだパスポートを取っておらず、すぐに取ってもらった経験がある。ドクター・ディジョネットは外国に行くのが初めてだったので、パスポートやビザがいることはわからなかったらしい。

先生の住んでいたネブラスカ州のオマハは、アメリカでも田舎でとても親切な人が多い。私はこの町のモーテルに泊まり、先生のところに通ったが何度か先生がホテル代を払ってくださった。先生は拳銃のコレクターで、家に行くとたくさんの拳銃が壁のいたるところに飾ってあった。

▲来日時のドクター・ディジョネット(奥、左から2番目)、左から1番目はドクター・マートン・ガンステッド、3番目は塩川満章D.C.

ドクター・マーク・ピックとはオマハのセミナーで会った。彼はSOTや頭蓋骨調整法に対して、ずば抜けた才能を持っていたので、早速来日してセミナーを開いてもらいたいと言ったら快く引き受けてくれた。それ以来、毎年来日して多くのファンを作った。

先生のクリニックはビバリーヒルズの中にあり、とてもモダンで立派な建物を父であるデイビッドに作ってもらい、毎月返済していた。私がアメリカで開業すればいつでもこのようなクリニックを作ってあげるよと言って、私のカイロプラクティックの技術を高く評価してくださった。

私はドクター・マークのクリニックを訪れるたびに、ロデオドライブの中にあるホテルでアフタヌーンティと甘いデザートを食べた。そして、ウィンドウショッピングを楽しんだ。

デイビッドはいつもロデオドライブで一番高価な服屋に私を連れて行き、高級なワイシャツやネクタイをプレゼントしてくれた。デイビッドは頭がよくて同級生の家庭教師をして学費を稼ぎ、大学を卒業すると不動産の専門の弁護士になったそうである。

息子は2人ともカイロプラクターで、共にドクター・ディジョネットを師としてSOTと頭蓋骨調整を専門に開業していた。

▲ドクター・マーク・ピック(左から2番目)と父親のデイビッド(左から3番目)

▲ドクター・マーク・ピックと塩川満章D.C.

私達3人は日本でのセミナーが終わると、アジアの他の国を訪れ、共に旅行を楽しんだ。特にデイビッドは東洋の骨董品に興味を抱き、香港やタイでは色々な骨董屋を見て回ったのを覚えている。それらの一部が後にベルエアーの大邸宅を購入した時に置いてあった。

デイビッドの家はエリザベス・テイラーの家の真下にあり、ハリウッドが一望できるとても立派な屋敷であった。この近辺には映画俳優のスティーブン・セガールの家もあり、何度となく訪れたが、とても環境が良いところである。

私がドクター・マークを訪問すると、必ずビバリーヒルズの映画俳優がよく行くレストランに連れて行ってくれた。レストランの中は映画やテレビで見かける人たちがテーブルを囲んで食事をしていた。ベルボーイは高級車を入れたり出したりして多額のチップをもらっていた。まるで映画の中のシーンである。

私もこんなところに気軽に来られるカイロプラクターになりたいと思ったことがたびたびあった。

ドクター・マークの結婚生活は、オープンマリッジといって12時までに帰ってくればお互いに誰とデートしてもかまわないというスタイルだったが、数年後には離婚してしまった。ドクター・マークのガレージには本物の人間の頭が置いてあり、人体解剖が趣味であったので、きっと奥さんも我慢できなくなり別れたのではないかと自分なりに推測したが、ドクター・マークは一言も話さなかった。

しばらくして、オーストラリアのカイロプラクティックの大学を卒業した人と結婚したが、彼女は再度アメリカのカイロプラクティック大学で学ばなくてはならなかった。

ドクター・トラキセルは、私がパーマー大学に通っていた時のガンステッドテクニックの恩師である。彼は確か1968年からパーマー大学でガンステッドテクニックを教えていた。古いワーゲンに乗り、大学に来ていた。後に友人からその理由を教えてもらった。

彼は給料のほとんどを、ガンステッドテクニックを学ぶために使っているというのである。最初のクリニックはイーストルーカス通りにあり、そこからウエストルーカスに移った。その後、患者が多くなり、デブンポート市の西の郊外に大きなクリニックを作った。そこの地下にはセミナー場があり、多くの学生が通った。学生は無料で治療してくれたために、私はよく通った。

ドクター・トラキセルの恩師であるドクター・ガンステッドが私たち学生に教えた期間はわずか12,3年ぐらいでしかなかった。

1964年に作ったあの巨大なクリニックの地下にセミナー場を作り、教えることがあまり得意ではなかったが、多くのカイロプラクターの要望に応えてセミナーを始めた。ドクター・トラキセルは初期の生徒で、ドクター・ガンステッドは彼のことをドクター・ティーと呼んでとてもかわいがっていた。

ドクター・ガンステッドに多くの先生が学んだが、私は弟子としては彼がナンバーワンだと思っている。私がドクター・トラキセルに、日本に来てガンステッドテクニックを教えてくださいとお願いすると、彼は快く引き受けてくれた。

ある時は日本橋の私の治療室で、お互いに多くの患者を診たことがある。その後、彼は韓国の孤児院に行き、2人の子供を引き取り自分の子供として育てた。その時の子供たちも今では29歳になる。

残念ながらドクター・トラキセルも今では亡くなったが、多くのガンステッドテクニックを専門にしているカイロプラクーを世界に送り出した。

ドクター・トラキセルは古いコルベットの収集家で、よく私に自慢げに見せてくれた。患者は朝早くから夜遅くまで訪れ、一日に平均しても120名から150名の患者を診ていた。

1969年ごろの私たちのガンステッドを勉強している仲間に、フレンチカナディアンのドクター・ディオットがいたが、彼をカナダから呼び寄せてガンステッドメソロジー協会を作り、ドクター・ガンステッドが亡くなった後に全米でセミナーを主催した。私たち日本にも多くの指導者が訪れて、セミナーを開いて指導してくれた。

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