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世界のカイロプラクター その2

私がパーマー大学に留学して最初に出会ったのが、ドクター・フレッド・ボーゴである。1968年の最初の学期に私の隣に座っていたのがフレッドだった。彼はデトロイト出身でドイツ系のハンガリー人である。私たちは気が合ったのか、大学の寮で最初の学期を過ごした。

その後、フレッドはフィアンセのキャロルをデトロイトから呼び、結婚して大学の近くに引っ越して行ったが、私にハンガリーの家庭料理をよく作ってくれた。フレッドの母親はとても明るく気さくな人で、私を実の息子のようにかわいがってくれた。

その時知り合った同級生にボブというニューヨークから来た学生がいた。彼は中国人の女性と結婚していたが、途中でカイロプラクティックをあきらめてしまい写真家になるために、またニューヨークに帰ってしまった。

当時のパーマー大学は1年を4クォーターに分けて、12クォーターで卒業できるシステムであったが、1科目落とすと3ヶ月遅れてしまうために毎学期生徒の顔ぶれが変わり、そのたびに新しい友人ができた。私は1年で3学期とり、4年で卒業することを選び、毎年夏の学期と夏休みの4ヶ月をいろいろな仕事をして生活費を稼ぐことにした。

ある時、夏の学期の最中に開催されるホームカミング(学園祭)の時、フレッドが高いところから落ちて大腿骨を骨折した。そのために、卒業は私より1年ぐらい遅れてしまった。

その後、フロリダでのカイロプラクティック学会で久しぶりにフレッドに会った。あれから骨折の後遺症で足が不自由になり、いろいろな先生の元を訪れたが治らず、最後の希望をアトラスオーソゴナルの創始者であるドクター・ロイ・スエットに託したところ、みるみるよくなってしまった。

そのため、このテクニックのとりこになり、猛勉強してアトラスオーソゴナル協会の会長になったことを聞いた。

▲ドクター・フレッド・ボーゴと塩川満章D.C.

アトラスオーソゴナルテクニックは当時、私にとってまったく初めて聞くテクニックであったので、早速フレッドのクリニックがあるデトロイトに行くことにした。特別な器械でアトラスを矯正するやり方であったが、矯正された感覚はなく、とても不思議に思えたが、その効果には驚かされた。

私は早速フレッドにどこで勉強したらいいかを聞くと、アトランタでセミナーがあることを知った。

何回通ったことだろう…

私は何年もかけてこのテクニックをマスターしようと考えた。毎年日本から先生方を連れて行き、治療やセミナーをしてもらい、どうにかできるようになった。

フレッドは忙しい時間を割いては何度となく日本に来てくれた。私もまた、何度となくミシガン湖のほとりにあるフレッドの自宅に泊まりながら、パーマー時代の思い出話に夢中になり、楽しいひと時を過ごすことができた。ある日、フレッドが夕食に連れて行ってくれた。その時初めて食用蛙を食べた。

フレッドのクリニックに初めて行った時にドクター・ディアーフィルドに会った。私はドクター・クレイ・トムソンからドクター・ディアーフィールドのことは聞いていたので、早速ドクター・トムソンに電話をした。それ以来、ドクター・ディアフィールドと親しく付き合うことができた。

後にフレッドが再婚した時には、私と同じテーブルにドクター・ディアフィールドが座っていたので、ディアフィールド長足短足測定法について色々質問することができた。

▲ドクター・フレッド・ボーゴ

▲ドクター・ディアフィールド

■ドクター・クレイ・トムソン
カイロプラクティックで一番高価なテーブルであるトムソンテーブルの開発者のドクター・クレイ・トムソンを知らないカイロプラクターはいない。

その名声は学生時代から聞いていたが、これほど親しくなるとは思ってもいなかった。私が南米ベネズエラでの仕事が終わり、一路日本へ帰る途中、パーマー大学で卒後教育を受けたいと思い大学に行った。

その時、たまたまドクター・クレイ・トムソンによるトムソンテクニックのセミナーがあったので早速受けることにした。セミナーが終わると、このすばらしいテクニックを日本に紹介したいと言ったら快く承諾してもらった。

しかしまだ半信半疑で早速日本に帰ってから手紙を書いたら、ガンステッドテクニックの創始者であるドクター・クリアランス・ガンステッドの弟であるドクター・マートン・ガンステッドも連れて行きたいということになり、2人を招待してセミナーを開くことにした。それ以来2人はよく来日され、第二の故郷であると言われるぐらい日本を訪れた。

アメリカでのセミナーにもよく一緒に行った。ある時、冬の寒い日に雪のためにシカゴからアイオワのデブンポート間での飛行機が欠航になり、私たちは飛行機会社が用意したホテルで同じ部屋に泊まった。

その時、ドクター・トムソンが私のターグルリコイルのスピードをチェックすることになった。

するとドクター・トムソンは「ミツ、とても速いけれども、まだ私よりも遅い」と言われた。先生がナンバーワンで私が2番目ということである。その時、BJパーマーがドクター・トムソンによく言っていた言葉を思い出した。

「クレイ、君のターグルのスピードはとても速いがまだ私にはかなわない」と。

とにかくドクター・トムソンとはアイオワに行くたびに食事をした。

▲来日時のドクター・クレイ・トムソン

ある時、ドクター・トムソンに連れられてデブンポートの銀行の貸金庫に行った。そして、その中からまったく空気にさらされていない20ドル金貨を私にくれた。私は一瞬びっくりして金貨を床に落としてしまった。私は今も傷ついたその時の20ドル金貨を大切に持っている。

ある時はBJパーマーからもらったレターオープナー(BJパーマーの顔が描かれた)やBJパーマーからドクター・トムソンに宛てた手紙などをもらった。とにかく私をBJ哲学に導いてくださったカイロ界の大恩人である。

バイオリンはプロ顔負けでとてもうまかった。一度高価なバイオリンを日本に持ってきて弾いてくださった。モーターボートを持っていて、よくミシシッピ川に連れて行ってもらった。ライフ大学のドクター・シッド・ウィリアムスとは親友で、その関係で私はライフ大学のVIPとして扱われた。人生哲学も色々教わった。

「人生で一番大切なものはお金ではなく友である。片手の真の友を持っている人は大きな財産である」

「常に2つ以上の収入の道を作りなさい。ひとつがだめでももうひとつがある」

私はライフ大学が主催したドクター・クレイ・トムソンの80歳の誕生会のメインスピーカーとして招待された。その時ドクター・トムソンは足腰が弱くなり車椅子であったが、私はその車椅子を押しているとまるで本当の息子のような気がした。

カイロプラクティックのクリニックは早くして弟子に譲り、自分は世界中で講演したり、大好きな釣りをしたり、ドクター・マートン・ガンステッドとアマゾンやいろいろなところに行ったりした。

人生をとても楽しんだカイロプラクターである。

▲バイオリンの演奏をするドクター・クレイ・トムソン

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