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世界のカイロプラクター その1

カイロプラクティックを通して多くの影響力のある人に会ったことは前にも書いたが、中でもパーマー家3代目のデイビッド・パーマー学長の妻であるアグネス・パーマー夫人との出会いは、後の私のカイロプラクティック人生に多くの影響を与えた。

幸運なことに日本から戦後初めての留学生ということで、パーマー学長は1ヶ月に1度夕食に招待してくださった。私を囲んで、パーマー学長、アグネス夫人、娘3人(ヴィッキー、カニー、バニー)の6人でよく食卓で話が弾んだ。

ヴィッキー現パーマー大学理事長がまだ小学生の頃である。食後、私とアグネス夫人はパーマー2代目の話に夢中になったことが今では懐かしく思われる。

2~3時間は話しただろうか…

地下室にはテーブルがあり、決まってアグネス夫人が私の上部頚椎を矯正した。アトラス後弓接触法ボディドロップターグルリコイルという技法である。この地下室には、元アメリカ大統領であったレーガン氏がBJのラジオ局のアナウンサーをしていた頃からハリウッドのスターそして大統領になるまでを、アグネス夫人がイタリアの彫刻であるミケランジェロ技法で作った像が置いてあった。

彼女は彫刻家としても、ピアニストとしても超一流である。しかも、女性のカイロプラクターとしてあれほどのスピードを持ったカイロプラクターに会ったことは無かった。

▲アグネス夫人とともに

私が出会ったカイロプラクターの中で印象深い人に、ドクター・ウォルター・ピアーズがいる。彼はピッツバーグのドウロバスバーグという田舎の出身で、私の母校であるパーマーカイロプラクティック大学を1950年代に卒業した。BJ哲学を愛し、カイロプラクティックの技術を追求したカイロプラクターの一人である。

最初は私が学んだガンステッドテクニックを勉強していたが、その理論に異を唱えて独自のシステムを確立した。

また、彼の友人に同じ考えを持ったドクター・スティルワーゲンがいた。そのために2人は自分たちのテクニックをPSTテクニック(ピアーズ・スティルワーゲンテクニック)と名付け、全米のカイロプラクターに教えていた。

1973年に、私が初めてドクター・トムソンを日本に招待してセミナーを開いた時、ドクター・トムソンからドクター・ピアーズというすばらしいカイロプラクターがいるので日本に招待してみないかと言われ、翌年の1974年に日本に招待してセミナーを開いた。

彼はドクター・トムソンが開発したトムソンテーブルを使って新しいテクニックを披露してくれた。すると瞬く間に日本中の多くのカイロプタクーに広まった。

このテクニックは、ガンステッドテクニックのようにテクニックの技を磨くために練習を重ねていく必要はなく、不器用な人でも簡単にできるため、年齢に関係なく多くのカイロプラクターに好まれた。

このテクニックでは、レントゲン写真の分析に力をいれ、正常な骨盤に対する異常を見つけることが重要視された。特に、ダブルPI、ダブルASの考え方は今までのガンステッド理論にはないものであった。

私は何回となくピッツバーグのピアーズクリニックに通い、このテクニックを学んだ。私が行くと、ドクター・ピアーズは必ずアメリカ式の肉のバーベキューをしてくれた。硬くて、しかも歯ごたえのあるアメリカの肉にはまってしまった。

ピアーズ邸は丘の上にあり、プール付の豪邸であった。カイロプラクターになると、このような生活ができるのかと大いに励みになった。ドクター・ピアーズはその後、透視レントゲン装置を地下室におき、頚椎の前屈、後屈でのレントゲン写真からサブラクセイションを見つける方法を発見した。私は何回もこの地を訪れることにより、この小さな町がとても好きになった。

ドクター・スティルワーゲンは、ドクター・ピアーズのクリニックから車で1時間ほど離れた昔のアメリカの家を思わせるようなクリニックで開業していた。彼の趣味は飛行機で、自分でも小さな飛行機を持ち、よく空を飛んではストレス開放していたそうだが、私は一度も乗らなかった。

彼は基本に忠実で一度もテクニックを変えなかったが、サーモグラフの研究にはとても熱心で独自の高価なサーモグラフィーを開発した。私はロジャータイトンが開発した遠赤外線コンピューターサーモグラフィーに深くかかわっていたので、ドクター・スティルワーゲンのサーモグラフの研究に協力することはできなかったが、お互いの友情は大切にすることができた。

一度韓国でのセミナーで会ったことがあるが、とても人間味のあるカイロプラクターであった。今では息子たちが立派にクリニックを受けついでいる。

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