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アメリカ留学記 その7

大学生活も4年目になると、アメリカの生活にもだいぶ慣れてきた。学生クリニックが終わると、先輩達から外来患者を紹介してもらい、受け継がなくてはならない。今までは学生同士が患者になり練習感覚でできたが、今度は治療費を払ってもらうわけだから、責任が生じる。

私は先輩からジョンディアーに勤めている老夫婦を患者として紹介してもらったが、後に、この老夫婦にはとてもお世話になり、まるで家族のようにしてもらった。

カイロプラクティックに色々なテクニックがあると分かったのもこの頃で、パーマー大学ではパーマーパッケージとしてパーマースタイルのディバーシファイドテクニック、ターグルリコイルテクニック、そしてガンステッドテクニックの3つのテクニックが教えられていた。

私はふとした事で、パーマー大学の前でオステオパシーのドクターと知り合うこととなった。彼の治療を見学したいと申し出たところ、こころよく、土曜日の昼から彼の治療を見学することが許された。時間の許す限り、そのドクターの頭蓋骨調整法を学んだ。さらにドクターは、私に貴重なドクターサザーランドが書いた頭蓋骨調整法という本をくださった。

私はドクターから学んだこの新しいテクニックをパーマー大学の外来クリニックで使ってみたくなり、ちょうど、ジョンデイアーの老夫婦が患者としてきていたので、使ってみた。

運悪く、クリニックの主任に見つかってしまった。翌日、私のポストボックスを見てみると一通の手紙が入っていた。その手紙は大学からで、内容は「あなたは大学で教えていないテクニックをクリニックで使った。もし再度そのようなことがあれば退学にする」というものであった。

私はすでに、規定の300回の患者を診ていたので、無料で自分のアパートで患者を診ることにした。そこで最も安く買えるターグルリコイルのサイドポスチャーテーブルを買うことにした。

このテーブルが私の最初のテーブルになった。色はオレンジ色で、そのテーブルはとても役に立った。今もこのテーブルを所有している。

私が「無料です」といっても患者はいくらかのお金を置いていった。1週間もすると、患者からの収入が役に立つこともあった。貧乏学生の私にとって1ヶ月200ドルぐらいになると、それが期待へと変わってしまった。人間は時と場合によって変わるものだと痛感させられた。

患者の中で、中南米のエルサルバドルから来た留学生で、アラサリ・カストロという近くの大学に通っていた女性がいた。彼女は私より1年先に卒業し、国に帰って行った。私は卒業したら、エルサルバドルに遊びに行くことを約束した。

10月に卒業したので、12月までの2ヶ月間はサンディエゴでガンステッドテクニックを専門として開業していたドクター・ラリーウイルソンの元で修行することにした。10月に卒業するとすぐに、友人の車で一路サンディエゴに向かった。アメリカに最初来た時とは、まったく逆の方である。

私はドクター・ラリーの家に泊まりながら、いろいろな患者を見ることができた。12月になるとドクター・ラリーと別れ、エルサルバドルに向かった。

初めての飛行機での旅だったのでとても緊張したのを覚えている。エルサルバドルのサンサルバドルに着くと、アラサリが飛行場に迎えに来てくれていた。当時の中南米はまだ発展途上国で、国民はまだ貧しい生活をしていたが、アラサリのお兄さんはコーヒーのプランテーションを所有し、国の要職にも就いていた。

アラサリにはもうすでにフィアンセがいたが、私とアラサリの姉と4人でよく食事に出かけた。この国はクリスチャンが多くて、デートにはよく誰かが付いて行くそうである。プロポーズの方法は何かゲームを楽しんでいるようでもあるが、とてもロマンティックでもある。

若者はまず、公園にたむろしているマリアッチを探し、そして今まで稼いできた大金を払い、彼女のところに連れて行く。彼女の家の下で、白い真新しい背広を着てバラの花を持って立っている。マリアッチはとてもロマンティックな歌をギターとともに歌いだす。すると彼女は窓を開けてその人が誰であるかを確認して歌を聴く。

もし好きな人で交際したかったら、最後まで聞きバラの花を受け取るが、交際したくなかったら、バケツいっぱいの水を2階から彼の頭めがけてかける。その日はものの見事にバケツいっぱいの水をかけられ、私も思わず笑ってしまった。

サンサルバドルでの生活はとても楽しかったが私はお礼に、無料でカイロプラクティックの治療を行うことにした。

その中の一人に、交通事故で車椅子の生活をしていたある中年の人がいた。私は彼のレントゲン写真を早速ドクターガンステッドに送った。

しばらくすると返事が来た。手紙には、「もうすでに交感神経が切断されているので治癒は不可能である」と、書いてあった。私はその時、神経さえつながっていれば治ることを確信した。

アラサリの家に滞在していたが、フィアンセがあまり快く思っていなかったために、アラサリの兄が私を彼の家に連れて行ってくれた。毎朝6時になるとコーヒーのプランテーションを見回りに行き、昼は海岸のレストランで食事をした。

ある日の食事で、私はエビにあたってしまった。救急病院に行ったが、その設備に不安になり、何もしないで「もう治った」と言って帰った。

私がここにいてはアラサリとフィアンセの関係がおかしくなってしまうと思い、日本へ帰ることにした。するとアラサリの兄はメキシコで遊んで行きなさいと言って、メキシコのペソを私にくれた。

私は早速メキシコ行きの飛行機を予約して、次の日にメキシコへ向かった。飛行場から乗ったメキシコシティに向かうタクシーの運転手がとても親切で翌日にはホテルへ来て色々と案内してくれた。ピラミッドやいろいろなところを案内してくれた。

私はアラサリのお兄さんからもらったペソがなくなるまでメキシコにいることにした。メキシコですべてのペソを使い終わると、翌日にはロスアンジェルスに飛んだが、税関で別室に連れて行かれてしまった。

後で分かったことであるが、私のパスポートは1回限りの学生ビザで一度出国したら無効になってしまっていたのだ。しばらく係員はいろいろなところへ電話したり、私の荷物をすべて念入りに調べたりしていた。

私が2~3日後にプレジデントウイルソン号で日本に帰ることを話すと特別に入国を許してくれた。

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