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アメリカ留学を振り返る その2

残された夏の休暇はあと1ヶ月もある。

私は隣町のロックアイランドのホテルで皿洗いの仕事を見つけ、また新しいアパートも見つけた。アパートは、ベッドと机がある程度の1ヶ月1~2万円までと決めていた。食費は1週間に30~40ドルに抑え、自分の力で大学を卒業することにした。

この頃の私の1日のスケジュールは、朝は6時に起きて6時半から7時の間には大学のキャフテリヤ(食堂)に行き朝食をとった。1時間目は7時半から始まるので、その間友人と話をしたりした。9時半になると30分間のコーヒータイムがあり、多くの学生は再度食堂に集まって次の授業の準備をしたり、友人との会話を楽しんだ。特にパーマーの伝統であるカイロプラクティック哲学には、みな熱弁を振るいお互いに思っていることを主張した。

2時半になると、ほとんどの学生は皆いっせいにアルバイトに行った。とにかくアメリカの大学生は、よく働きよく勉強する。1学期は2ヶ月半から3ヶ月単位で終わり、1つの学期が終わると期末試験があり、翌週から新しい学期が始まるので休む暇もない。パーマー大学は年4学期制で、夏休みが毎年6月半ばから7月半ばまである。夏の学期は7月から9月まであるが、ほとんどの学生は夏休みを取り、年4ヶ月働いて1年間の学費や生活費を稼いで自分の力で卒業する。もし親から借りても、卒業してから返済する。若くして自立心を養ったり、人に頼らない人生を送るためである。

私は、夕方の6時から9時まで月曜から土曜日まで1日約3時間柔道を教えた。日曜日には、子供たちにプライベートレッスンとして近くの公園で柔道を教えた。セミナーがある時だけ休んだが、ほとんど毎日仕事と学校に費やした。

毎年冬休みになるといろいろな友人が、自分の家に来ないかと誘ってくれた。ニューヨークの近くのイタリア人やニユージャージーから来たハンガリー人、イスラエル人など、すべての家族が私をとても大事にしてくれた。特にイスラエルから移民してきたマイラン・ブラウンの両親は、私の卒業式にはわざわざニュージャージーから車でドライブして駆けつけてくれた。

アメリカに移民してきた多くのイスラエル人は入国する時に、新しい名前を色から選んだそうである。そのためにイスラエル出身の人たちには、ブラウンとかグリーン、そしてシルバー、ゴールドなどの名前がついているのである。

ハンガリーから移民してきたジーン・ジョホダは革命で、彼が少年にもかかわらず銃を持ち戦ったそうである。ヨーロッパからアメリカから移民して来た人たちは、それぞれ私たち日本人が経験したこともないような生活に耐えてきたような気がした。私が4年間住んでいたデブンポート市も、多くのヨーロッパからの移民が多く住んでいた。

私はYMCAで柔道の先生という立場だったので、多くの人と知り合った。生徒の中には親が市長であったり、警察署長であったりしたために、よく夕食に招待された。市長の家はそんなに大きくはなく、素朴でとてもびっくりしたのを覚えている。

私の柔道の生徒の中に、60代のパーマー大学で化学を教えている教授がいた。私が手加減したらとても嫌がったので、他の若い人と同じように扱うと、とても喜んでくれた。柔道の生徒であった高校生のジェミーは、私を兄のように慕ってくれた。彼と付き合っていくうちに、アメリカの若者の考え方や生活の基礎になっているものなど多くのことを学ぶことができた。

私の人生の中において、アメリカ人の考えもすることができ、日本の良い点、アメリカの良い点を吸収することができたことは、私の大きな財産になった。知識とは、偉大なる力であると言ったBJパーマーの言葉がよく理解できた。

私はパーマー大学に入学する時にある計画を立てた。もし夏休みも大学に通えば3年で卒業できる。しかし、私はアメリカのことをもっと知りたかったので4年で卒業することを選んだ。

この4年3ヶ月という年月を通して、多くの経験をした。

1972年10月に卒業した時には、5000ドルの貯蓄ができた。10月~12月までの間、日本に帰る前に貯蓄していたすべてのお金を使いきるために、エルサルバドルで無料治療をすることにした。日本を出発してから4年と3ヶ月、その間一度も日本に帰らなかった。帰りたくても、日本に帰る旅費が無かったからである。

私はそのためにアメリカ人の考え方がわかり、自分がアメリカ人だと思えるほどになり、日本に帰った時にはあまりにも多くの外人がいると錯覚するほどになっていた。考えてみると私がアメリカに留学した時にはまったく英語が話せず、私の英語の知識は英語学校に1年間通った程度であった。

大学での1年間は友人のノート写しから始まり、なかなか授業についていけなかった。しかし2年目からは英語がはっきりと聞き取れるようになり、私の会話力はめきめき上達していった。夢も英語で見るようになり、アメリカ人の会話に入れるようになった。

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